西暦 (和暦) 〔年齢〕 |
事 項 |
1854年 (嘉永 7) 〔 0歳〕 |
11月3日、越中(現・富山県)・高岡で誕生。父・精一、母・幸子。 |
1855年 (安政 2) 〔 1歳〕 |
高岡から加賀(現・石川県)・金沢に転居。 |
1862年 (文久 2) 〔 8歳〕 |
加賀藩校「明倫堂」へ入学。 |
1865年 (慶応元) 〔11歳〕 |
藩命により長崎へ留学(3年間)。その後京都、大阪を遍歴。 |
1872年 (明治 5) 〔18歳〕 |
東京に出て工部省の官費修技生となる。(翌年、工部省工学寮開設。) |
1877年 (明治10) 〔23歳〕 |
工学寮が工部大学校と改称(のちの東京大学工学部)。 |
1879年 (明治12) 〔25歳〕 |
応用化学科首席で工部大学校を卒業。翌年工部省から派遣されて英国留学。工場実習を通じて人造肥料の製造を体験する。 |
1883年 (明治16) 〔29歳〕 |
帰国し、農商務省工務局勧工課勤務。 |
1886年 (明治19) 〔32歳〕 |
特許局次長となる。「液体防腐法と装置」特許出願(特許100号。ただし、名義は弟の高峰三郎)。 |
1887年 (明治18) 〔33歳〕 |
米国でキャロライン・ヒッチと結婚。渋沢栄一らと「東京人造肥料会社」設立。 |
1888年 (明治21) 〔34歳〕 |
長男襄吉誕生。農商務省を退職。東京人造肥料会社隣地に「私設製薬所」設置。 |
1889年 (明治22) 〔35歳〕 |
次男エーベン・孝誕生。 |
1890年 (明治23) 〔36歳〕 |
東京人造肥料会社を退職して渡米。船中で肝臓病にかかるが何とか死を免れる。シカゴで4ヶ月の療養生活を送る。 |
1891年 (明治24) 〔37歳〕 |
シカゴの醸造所で元麹によるアルコール醸造試験に成功。ピオリア(イリノイ州)へ移住し、本格的な醸造実験を開始。 |
1893年 (明治26) 〔39歳〕 |
火災事故で試醸場全焼失。肝臓病が再発、緊急入院。(2ヶ月間) |
1894年 (明治27) 〔40歳〕 |
「タカヂアスターゼ」米特許出願。 |
1897年 (明治30) 〔43歳〕 |
「タカヂアスターゼ」の製造販売について、米パーク・デイビス社と提携。一家でニューヨークへ移住、マンハッタンに住居とラボ(実験室)を構える。 |
1900年 (明治33) 〔46歳〕 |
生理活性物質「アドレナリン」の結晶化に成功(助手・上中啓三)。米特許出願。 |
1905年 (明治38) 〔51歳〕 |
セントルイス万博に明治政府が出展したメインパビリオンをメリーウォルドに移築。大鳥圭介が「松楓殿」と命名。ニューヨークに「日本倶楽部」創設。 |
1907年 (明治40) 〔53歳〕 |
ニューヨークに「日本協会」設立。 |
1912年 (明治45) 〔58歳〕 |
帝国学士院賞受賞。桜の苗木を日本から取り寄せ、米ハドソン河畔に植樹(サクラ・パーク) |
1913年 (大正 2) 〔59歳〕 |
「三共株式会社」初代社長に就任。「国民的化学研究所」設立を提唱。(4年後に「理化学研究所」として実現。) |
1921年 (大正10) 〔67歳〕 |
「亜細亜アルミナム」社設立。(三共と米企業との合弁。日本でのアルミニウム製造のため。) |
1922年 (大正11) |
7月、ニューヨークで死去(67歳)。 |