銀座煉瓦街で使用された煉瓦
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」明治維新を迎えた日本では、人々の生活のいたる所に西洋の文化が取り入れられました。人間の生活の場である建物も、それまでの木や紙で造られた和風の建物に代わり、新しい材料を用いた洋風の建物が少しずつ建てられるようになりました。こうした変化が一番大がかりだったのが首都・東京でしょう。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように、江戸・東京に住む人々は、ひとたび火が出ればすぐに燃え広がる、まるでマッチ箱のような建物で生活していました。「宵越しの銭は持たない」といった江戸っ子精神は、頻発する火事に悩まされながらも、江戸に住むからにはいつ焼け出されても覚悟の上といった、一種のやせ我慢ともいえる気持ちから生まれたものです。
明治時代になって皇居が東京に移ると、時の政府は、陛下のお膝元がたびたび火事に遭うのでは困ったものだ、文明国の仲間入りをしようとする日本の首都が、いつまでも江戸時代のままでは外国人に対しても見栄えが悪い、と考え、東京を西洋都市に近づけようとその改造計画に着手しました。
一番最初に行ったのが、ちょうど大火事で焼け野原になった銀座の街を、火に強い煉瓦造の建物に建て変えてしまおうという煉瓦街化計画でした。当時の日本にはまだ西洋の建物を造れる技術者がいなかったので、政府はイギリス人の建築家T.J.ウォートルスをはじめ2人の外国人技術者を雇い、建物の設計・材料となる煉瓦の製造・街中を巡る街路の計画にいたる銀座の都市計画のすべてを行わせました。
現在の中央通りには2階建ての建物を煉瓦で築き、1階正面には石の柱を立て並べアーケードとし、その上にベランダを張り巡らせました。煉瓦の壁面は西洋漆喰で白く塗りあげ、アーチ型で両開きのガラス窓や出入り口を設けました。また中央通りそのものは、13m程だった道幅を27m程に広げ、馬車や人力車の走る車道と人が歩く歩道に区別し、歩道は煉瓦で舗装しガス灯を立て、なぜか車道側に松・桜・楓と街路樹を交互に植えました。
現在、煉瓦街を偲ばせるものは当時を引き継ぐ街区割りと記念碑以外ほとんどありませんが、故・村松貞次郎東大名誉教授が在職中に収集された歴史的な煉瓦のコレクションおよそ400点(当館に寄贈)の中に、この銀座煉瓦街で使用された煉瓦が含まれており、当時の煉瓦の様子を知ることができます。
参考写真(1):T.J.ウォートルスによる煉瓦の施工図面
(東京都公文書館蔵)
参考写真(2):銀座煉瓦街の発掘風景