牧野家大工道具
建物を建てるのに大工道具が必要な事は昔も今も変わりません。鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物が増えた事は、使う道具にも変化をもたらしましたが、建物に木が使われているのであれば、昔ながらの大工道具は必ずどこかで使われています。牧野雅之氏から寄贈されたこの大工道具も、氏が大工職人として働いていた当時、実際に使っていた道具です。
木造の建物を日本の伝統的な建築工法で建てる際、大工職人が使う道具の数は179にも及びます。その種類を大まかに分類すれば、「鋸」・「鉋」・「鑿」・「錐」・「玄能及び槌」・「釘抜及び釘締」・「毛引」・「まさかり及びちょうな」・「雑道具」になります。写真で紹介しているものはそのうちの鑿(下段)と雑道具の1つである小刀(上段)です。鑿は木材に穴を空ける道具で、小刀はナイフのように様々な使い方をします。
一口に鑿と言っても、その中にたくさんの種類があります。写真の鑿は「大入れ鑿(追入れ鑿)」と「丸鑿」(右側の2本)で、大入れ鑿は造作仕事(木材を加工して形を整える)に使い、丸鑿は丸太仕事(丸太を加工する)の際に用います。
これらの鑿は左久弘という道具鍛冶職人が作りました。左久弘は明治時代に活躍した職人で、名工と呼ばれました。腕の良い職人でしたから、当時の大工は競って彼の作った道具を手に入れようとし、彼の作った道具を持っていることを自慢しました。
左久弘は初め「久弘」という名前で仕事をし、自分の作った道具にもその名前を銘として刻んでいました。ところが、道具を卸していた問屋が「久弘」の名前を商標登録してしまい、職人の久弘自身がその名前を自由に使えなくなってしまいました。考えた久弘は、名前を「左久弘」に改めます。そして、それまで自分が作った道具に刻んでいた「久弘」の銘を、判子に刻むような裏返しの文字で刻み、その文字のまわりをひょうたんの形で囲んだマークを作って、これを刻印として作った道具に刻みました。
ここで紹介した鑿にも、“ヒョウタンに裏返しの「久弘」”の刻印が刻まれており、道具鍛冶・左久弘の思いと、この道具を持つことを自慢しあった大工達の心意気を、今に感じることができます。