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理工電子資料館

オートモ号

 1925(大正14)年10月末、横浜より日本郵船阿蘇丸で上海に向け積み出された自動車がありました。これが国産自動車の輸出第一号とされている「オートモ号」です。
 この日本最初の国産自動車輸出第1号を製作したのが、白楊社を設立した豊川順彌です。順弥は、岩崎小弥太の従兄弟で三菱の重役であった豊川良平の長男として生まれました。機械好きだった順彌は、動力関係の勉強のため、1913(大正2)年から2年間アメリカに留学しました。その頃のアメリカは自動車が急速に普及し始めた時代で、1908(明治41)年にデビューしたT型フォードは、その後20年程の間に1500万台以上も生産されるほどでした。渡米した順彌は、自動車に大きな興味を持ちました。
 アメリカから戻った順彌は、さっそく自動車製造を計画しましたが、賛成する者は誰もいなかったといいます。父良平の財産をつぎ込むような形で会社を起こしましたが、漢詩より取った「白楊社」という社名は、わが身を犠牲にしても国の礎ならん、という順弥の決意を表しています。
 1920(大正9)年より自動車の本格的な研究を開始し、翌1921(大正10)年に「アレス号」、水冷1610ccと空冷780ccの2種類が試作されました。空冷エンジンは当時世界の中でも先進的な物でした。1924(大正13)年11月には車名を豊川家の祖先、大伴にちなみ「オートモ号」と変え、1925(大正14)年12月には東京洲崎で行われた自動車競争倶楽部主催の自動車レースに出場して、「The Japan Times」紙に「小さな日本製の小馬力の自動車が予選で堂々の1位、決勝で2位という素晴らしい成績をあげた」と報道されています。
 しかしながら当時の日本では、生産力や部品供給で欧米の自動車に太刀打ちできるわけもなく、特に1925(大正14)年、1927(昭和2)年に相次いで国内に設立されたフォード、GMの工場が稼働を始めると、ほとんどの自動車は軍用車を除いて欧米車に独占され、白楊社も1928(昭和3)年には閉鎖されました。
 1966(昭和41)年に白楊社及び豊川順彌の資料一切が、国立科学博物館に寄贈されました。それはエンジンやミッション、多数の部品の他、数千枚に及ぶ自動車図面や機械図面、経営資料、記録写真を含み、当時の日本における最高レベルの機械工場の状況を、ほぼ完全に把握できるものです。
 この草創期の自動車資料は、国立科学博物館が2000(平成12)年に開催した「自動車展」で展示されました。写真のオートモ号は、出来うる限り現存品、欠品は図面通りに製作、の基本方針のもと、トヨタ博物館との協同プロジェクトで、1999(平成11)年に復元されたものです。

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