明治政府が漢方を排し、西洋医学受容に切り替える過程を述べる。
全国医師の9割が漢方医であったなかで、政府は西洋医学に切り替えるには医学教育制度の充実と海外留学による人材育成がもっともてっとり早い方法であると考え、医学教育機関(東京大学)の創立、御雇い教師によるドイツ医学を導入し、同時に留学制度を創設した。最初の留学生佐藤進は旅券第1号をもってドイツへ留学、ベルリン大学医学部のアジア人最初の卒業生となり、帰国後、西南戦争で陸軍軍医として活躍した。他の留学生も帰国後、大学教授となり、御雇い外人教師に替わっていった。
御雇い外人教師
ウィリス
御雇い外人教師
ボードウィン
御雇い外人教師
ミュルレル
---------[所蔵先:順天堂大学]---------
みどころ
「明治10(1877)年の日本製切除器(鰯屋製)」
西南戦争のとき佐藤進病院長が使用した外科道具。これは佐藤進が本郷の器械問屋鰯屋に作らせたもの。
[所蔵先:陸上自衛隊衛生学校医学情報史料室(彰古館)]
「ムラージュ」
明治30(1897)年頃から日本で製作された、皮膚病などの傷病部分を忠実に写し取った模型で、医療教育に使用された。
東京帝国大学の皮膚科教授土肥慶蔵が留学中に製法を学び、帰国後、伊藤有に技法を教授し、独自の製法を考案し製作したとされる。
[所蔵先:国立科学博物館
・医学文化館旧蔵]