2008年7月23日更新
佐宗亜衣子・釼持輝久・諏訪元 (2008) 大浦山洞穴の弥生時代人骨. 横須賀考古学会年報, (42): 7-13.
の内容を転載する。
佐宗亜衣子・釼持輝久・諏訪 元
大浦山洞穴の第3次発掘調査が終了して間もなく、鈴木尚は弥生層出土の人骨群について食人の痕跡であるとの見解を発表した(鈴木 1966)。報告書の中で、各個の骨片に残された損傷の痕跡を詳細に記載し、関節周辺にみられる切創、長幹骨の分割、頭骨の打撃創など、縄文の遺跡から出土する獣骨の解体痕と同じ位置に損傷が認められることを示した。食用に供する獣骨と同じ手法で解体されたと解釈されること及び、徹底的な破壊の様子から、復讐のための呪術的・儀礼的食人が行われたのであろうと考察している(鈴木 1983, 1997, 1998)。鈴木の考察は内容が衝撃的であるためか、正面から取上げて議論している専門的文献は多くない(春成 1986, 1993, 2007、森 1994)。これらの人骨群を食人痕跡とすることの妥当性について、考古学・人類学側面から十分に議論され、評価されているとは言い難い。
大浦山洞穴の事例は「三浦半島の海蝕洞穴の葬制の根幹にかかわる」問題であり(釼持 1999)、社会的構造、価値観など関東弥生時代社会の全体像にたいする考察に大きな影響を与えうる情報を内包していることは言うまでもない。われわれは以下に記すような、大浦山洞穴資料を生物人類学的観点から詳細に記録するデータベース化を通じて、同人骨群の性状について定量化評価を試みている。定量的データとその分析結果を示すことで、より詳細でより実証的な情報を提供したいと考えている。
資料
東京大学総合研究博物館には、弥生時代層の資料を中心に、2〜7層出土の人骨及び少数の獣骨が収蔵されている。2002年よりデータベース化に向けた再整理・再検討に着手し、現在も継続作業中である。それに先行して、5〜7層の一部の人骨について14C年代測定を行った。試料は360 calBC〜50 calADの年代を示し、土器編年による年代とほぼ矛盾しない結果を得ている(Yoneda et. al.,2005)。
調査の概要
古人骨資料において食人痕跡であるか否かを判断する難しさは、様々な先行研究において指摘されている(White 1992, Turner and Turner 1999)。鈴木も述べているように、単純な骨の人為的な損傷や破壊の有無は、再葬や儀礼・呪術目的、加工目的など食べる行為を伴わない要因が想定され、決定的な食人の証拠とはみなせない(鈴木 1998, White 1992)。
また、食人には力の譲渡や復讐などを目的とした儀礼・呪術的食人、食料源の獲得のための経済的食人、薬としての医療的食人など、多様な事例が報告されている(Lindenbaum 2004)。それら全体を視野に入れた検討をするには、骨学的情報のみではなく、考古学的コンテキスト、社会構成、共伴遺物、民俗学的評価などを含めた複合的判断をするべきであると指摘されている(Hurlbut 2000)。
考古学資料による先行研究では、飢餓などによる食料源獲得を目的とした場合に焦点をあてた研究が多い。それらでは、食人による損傷痕として、解体や肉の剥ぎとりを示す切痕、脳や骨髄の取出しを目的とした骨破壊、焼骨、打撃時に床石によって生じる擦過傷、破壊や煮炊きによる脊椎骨の欠損、煮炊きによる骨片辺縁の磨耗などがあげられている(Turner 1993)。判断に際しては、骨に認められる作業痕跡が栄養摂取を目的とした場合と矛盾しておらず、人体の効率的利用の結果を反映しているとみなせるかを検討することが大切であるとされる。国外の研究では遺跡出土の動物骨資料と人骨片に認められる破壊パターン間の定量的評価と比較分析が行われて来た(White 1992, Turner and Turner 1999, Caceres et al 2007)。
今回は予備的調査として大浦山洞穴の人骨と獣骨資料について、出土部位の頻度分布、骨の破片化率、遺跡内での骨片の分布パターン、各部位での損傷痕のみられる骨片の割合などについて検討し、その特徴を比較することとした。
まずは遺跡内での各骨片の分布をより詳細に把握するため、発掘当時の記録資料に遡って確認しようと考えた。平成18年6月から12月にかけて、赤星直忠博士文化財資料館に保管されていた約100点あまりの発掘原記録、調査日誌、研究記録、写真等の閲覧と調査を行った。しかし残念なことに、最も出土位置を微細に記録したであろう平板図は、現在までの調査では確認できなかった。関係各所のどこかに移されたとのことであるので、三浦市教育委員会と横須賀考古学会の協力のもと引き続き調査中である。また、総合研究博物館に保管されている関連資料(発掘記録、標本整理記録、ガラス乾板写真)についても調査した。これらの記録と標本ラベルや注記、標本本体との矛盾の有無を検討し、多方面から出土位置の確認に努めた。
次に、骨片間の接合を確認して記録し、各部位における最小個体数を調査した。損傷痕にはcut、chop、scrape、scratchなどさまざまな形態がみられる。まずは全容をつかむため、cut及びchopmark(図2)に焦点をしぼって調査することとし、肉眼や拡大鏡で位置を確認し、必要に応じて実体顕微鏡やSEMを使用して観察と記録を行った。さらにWhite(1992)のプロトコルを元に個々の骨片の破片化の程度、外表面の保存状態、獣による噛み跡の有無、人為的損傷の位置ならびに形状など、より詳細な観察及び記録を開始した。
獣骨資料での結果
獣骨は種・部位の鑑定は釼持が、その他の観察は佐宗が担当した。大浦山洞穴の獣骨はもともと発掘面積に比して近隣の海蝕洞穴より少ないと報告している(釼持 1997, 1999)。今回新たに整理した未報告の資料を加えても、全体量が少ないことは同様である。洞内での骨片の出土分布は層位では37%が5層から、52%が6層から出土している。区では37%がW区から、34%がX区から出土している(図3)。出土した種類は近隣の海蝕洞穴とほぼ共通しており、哺乳類、鳥類、魚類の内訳は、それぞれ55%、15%、30%であった。哺乳類のうち、ニホンジカが32%を占め、イノシシは8%であった。哺乳類および鳥類では約2割の破片が若年個体であった。ニホンジカがイノシシより多く、全体に若い個体が目立つという傾向は同地域の他洞穴と共通する。各層位ごとの内訳では哺乳類の頻度は下位層ほど高くなり、魚類は上位層ほど頻度が高くなる傾向が見られた。鳥類は5・6層より7層で頻度が高かった。
損傷痕は全体の約2割に認められ、そのほとんどが金属製刃物による損傷とみられた。しかし、うち約3割が弥生時代の遺跡で骨角器の素材として一般的な鹿角におけるものであった。それ以外の部位の損傷も研磨がみられるなど、形状、位置等から加工目的と判断されるものの頻度が比較的高かった。また、骨外表面に齧歯類による噛み跡や劣化が見られた。標本の接合関係では同一の取上げ番号から出土した標本や、発掘・保管の過程で破片化した標本間でのみ接合がみられ、他区間での接合例は見られなかった。
まとめ
上述のとおり人骨と獣骨では、年齢構成、接合した骨片間の空間的分布、損傷痕の指向性、骨外表面の非人為的損傷の程度において違いがみられた。これらは人骨が獣骨よりも、より意図的に破壊され、洞穴内にばら撒かれ、埋められていたことを示唆している。当初の計画では、獣骨資料と比較することで、人骨資料を食人の痕跡と見る妥当性を検証しよう考えていた。しかし予想に反して、大浦山の獣骨は大型の哺乳類が少ないためか、加工目的での利用頻度が高いことが分析結果から判明した。獣骨片の出土量が少ないこともあり、人骨にみられる損壊の性状を同遺跡から出土した食用の痕跡と比較するための資料としては十分ではなかった。
しかし、人骨の破壊と散布については、鈴木(1997)の見解を実証的側面から、より補強する量的データを得ることができた。それに加えて新たに、非人為的損傷の頻度と程度の違いから、獣骨片を遺棄する場合とは意識を異にして、人骨を意図的に土中あるいは石の間に埋めていたとの結果を得ることができた。獣骨が加工目的利用の色彩が強い点でさらなる検討を要するものの、人骨と獣骨の扱いに差が示されたことは、大浦山洞穴の人体解体が単に食料獲得を目的としたものではなかった可能性を示唆する。また、6層への人骨片の集中は、この解体埋葬が比較的短い限られた期間にだけ行われたことを示している。最小個体数の検証からは頭部が選択的に解体されたという以前の解釈と異なり、より全身の部位が解体の対象となったことが明らかとなった。
詳細な記録・観察はまだ途上である。具体的な解体の手順や方法についての再検討を含めた踏み込んだ考察をするにあたっては、体幹及び四肢末端骨の分析は欠かせない。今後、データの充実を図り、より精度の高いものへと発展させる努力を継続していきたい。その上で、縄文時代の獣骨解体痕や諸外国の食人痕跡と考えられている資料との相違についても検討できればと考えている。また、解体埋葬の対象となったのは誰なのかということの探究も重要な課題の一つである。そのためには大浦山人の四肢骨も含めた形態的特徴を明らかにし、同時代の近隣集団と比較することが必要となるだろう。
謝辞
[略]
参考文献
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Caceres I., Lozano M. and Palmira S. 2007 Evidence for Bronze Age Cannibalism in EI Mirador Cave (Sierra de Atapuerca, Burgos, Spain). American Journal of Physical Anthropology, 133: 899-917.
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1998 「3 洞窟が語る弥生時代の犠牲者の謎」 『骨が語る日本史』 学生社、東京pp61-102.
春成秀爾 1986 「漁撈民の世界―大浦山洞穴遺跡」 坪井清足監修 小林達雄編 『図説 発掘が語る日本史 2 関東・甲信越編』 V 弥生時代、新人物往来社、東京 pp142-148.
1993 「弥生時代の再葬制」『国立歴史民俗博物館研究報告』 49: 47-91.
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Yoneda M., Saso A.,Suzuki R.,Shibata Y., Morita M., Suwa G. and Akazawa T. 2005 Chronology of the Yayoi skeletal remains from the Kanto district, Japan: a preliminary re-evaluation by radiocarbon dating of postcranial material. Anthropological Science, 113: 169-182.
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