更新世から縄文・弥生期にかけての
日本人の変遷に関する総合的研究
Synthetic Research on the Transition of the Japanese from the Pleistocene to the Jomon and Yayoi Periods
[ 平成17年度〜平成21年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(S))による研究: 課題番号 17107006 ]
☆☆日本人の起源に興味を持っている方々へ!☆☆
「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」研究班
研究班の構成
2010.5.20更新
(2007.5.22作成開始)
[[[ はじめに ]]]
2010.5.20
本プロジェクト、「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」は、2010年3月末をもって終了致しました。
これまでの研究成果の詳細は論文や書籍として公表されています。また、本プロジェクトの締めくくりとして 2010年2月20日に開催された公開シンポジウムの抄録はここをクリックすれば見られます。そして、シンポジウムの内容とほぼ同じ内容が、岩波書店発行の雑誌、「科学」2010年4月号に、特集「日本人への旅」として、まとめて掲載されていますので、是非ご覧になって下さい。
ここでは、本プロジェクトの最終目的であった現代日本人形成過程のシナリオ再構築の試みの結果を、記しておきたいと思います。
旧版「はじめに」および概要
[[[ まとめ: 現代日本人形成過程のシナリオ再構築の試み ]]]
2010.5.20
このプロジェクトで、我々は、形態と遺伝子のデータに基づいて、旧石器時代から縄文〜弥生移行期まで日本列島住民の身体形質がいかに変化したか、という問題を再検討し、日本人形成過程の新シナリオを構築しようと試みました。得られた調査・分析のおもな結果は以下のとおりです。
(1)日本列島のいわゆる「旧石器時代人骨」の再検討
・沖縄県南城市玉城奥武のハナンダー洞穴を発掘し、2〜3万年前に絶滅したリュウキュウシカなどの獣骨化石数百点とヒトの膝蓋骨1個を発見した。
・港川人骨群の一部は上部港川人骨と年代が重なる可能性を確認した。
・眉間部表面の三次元形態数値解析により港川人に特有の形態や港川人・縄文人時代人に共通な特徴を抽出した(佐宗ほか、2006)
。
・港川人1号頭骨の脳容量を三次元マイクロCTによって再検討し、従来よりもかなり小さい推定値(1335cc)を得た( Kubo et al., 2008)。
・後期更新世の沖縄港川人と北海道〜九州地方縄文時代人の下顎骨の間に多数の形態的相違点を見出だした。これは両者の間に系譜的連続性を認める従来の仮説に見直しを迫るものである(Kaifu et al., n.d.; 海部・藤田、2010)。
・沖縄県山下町第一洞穴人骨と同遺跡出土シカ化石との相対年代の判定を行なった。
・山下町第一洞穴から発掘されたシカ化石の出土層位記載に混乱があることなどを指摘した。
・山下町洞穴出土の旧石器時代の子ども人骨を縄文時代のものと比較した結果、ホモ・サピエンスとして矛盾がないことが判明した(藤田ほか、2007)。
・「葛生人骨」のうちの本当の人骨は全て上部葛生層出土獣骨のフッ素含量の範囲から外れていることを指摘した。
・典型性確率を使った頭蓋計測値の分析で、オーストラリア東南部出土の人骨化石であるキーローなどに似た後期更新世人も、縄文時代人の祖先候補とすべきであることを指摘した(Mizoguchi, n.d.; 溝口、2010)。
・沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴で発見された人骨片のうちの1片、右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては国内最古のものである(Nakagawa et al., n.d.; 中川・米田、2010)。
(2)縄文時代早・前期人の調査・分析
・長野県栃原遺跡出土縄文時代早期人骨の詳細な観察を行ない、その形態的特徴を明らかにした。
・栃原遺跡人骨の1本の歯のDNA試料の採取に成功した。
・愛媛県上黒岩岩陰遺跡出土の縄文時代早期人骨25体を整理し、見直し分析を行なった結果、全体の7割近くが子どもであったこと、四肢骨は華奢で、虫歯の頻度は0.7%とかなり低くかったことなどが明らかにされた(中橋・岡崎、2009; 岡崎・中橋、2009)。
(3)北海道縄文・続縄文時代人骨のミトコンドリアDNA分析
・北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっていることを明らかにした。
・東北地方縄文時代人も北海道縄文・続縄文時代人と同じ母系を持つ可能性を指摘した。
・北海道縄文時代人のミトコンドリアDNAの一部は、最終氷期に南シベリアから、細石器と御子柴文化をもつ祖先によって持ち込まれた可能性が示唆された(Adachi et al., 2009; 篠田・安達、2010)。
(4)弥生時代枠組み変化の日本人起源仮説への影響の検討
・弥生開始期の年代は500年程度遡らせるべきだ、との見解に従って計算機シミュレーション的に再分析を行なうと、渡来系の人々は、これまで以上に緩やかな増加率で土着縄文人を圧倒し、人口比の逆転現象を起こし得ることが示された( 中橋・飯塚、2008; 中橋・飯塚、2010)。
・弥生時代の人口増加を発掘住居数を用いて解析する数理的方法を検討した。
・南九州と沖縄の縄文・弥生遺跡出土人骨から試料を収集し、DNA分析を行なった。
(5)関東「弥生時代人」標本の年代再検討と食性分析
・東京大学総合研究博物館所蔵の「弥生時代」標本の年代を再検討し、一部が縄文時代や古墳時代に属することを確認した(Yoneda et al., 2005)。
・弥生時代人骨の高精度放射性炭素測定のため、コラーゲン精製法や海洋リザーバー年代補正法の検討を行なった(Yoneda et al., 2007)。
・弥生時代人の食性分析の前段階として、千葉県の縄文時代中・後期人骨資料の炭素・窒素同位体比を測定し、中期から後期にかけて同位体の傾向はあまり変化していないこと、また、遺跡間でも顕著な違いがないことを明らかにした。
・人骨試料を使って縄文早期・中期・後期および弥生(および続縄文)時代での食生態を検討した結果、植物と魚類の組みあわせという視点では、弥生時代においても、縄文時代から食生態に大きな変化は見られないことが明らかになった(米田、2010)。
・人骨コラーゲンの炭素・窒素同位体比分析から、先史沖縄貝塚人の食物は主に魚貝類で、魚貝の外にクリ、ドングリなども食べていた本土縄文時代人とは、食生活が異なっていたことを明らかにした(米田、2010)。
(6)頭蓋・四肢骨計測値の地理的変異パターンにおける縄文・弥生時代間差の検討
・縄文時代から現代までの日本人集団の平均値データを使って、脳頭蓋と四肢骨の間の共変動関係を統計学的に調べ、頭蓋最大長と四肢骨の太さの間に強い関連があることを明らかにした(Mizoguchi, 2007)。
・縄文・古墳時代の頭蓋計測値の地理的変異パターンの比較により、地域ごとに異なる時代的変化か、大きな移住の流れがあったことが示唆された。
・群間変異の原因を探るための基礎的研究として脳頭蓋と顔面頭蓋の計測値の間の群内相関の多変量解析を行なった結果、群間変異の解釈の際にも形質相互相関の性差を念頭におくべきことが指摘された(Mizoguchi, 2007)。
・縄文・古墳時代人の頭蓋・四肢骨計測値と環境変数の地理的変異パターンを比較した結果、縄文・古墳ともに骨の計測値は緯度や気温と関連していたが、後者を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連はなかった。
・集団間変異パターンの解釈の基礎として、集団内での分析も行なった結果、おもな四肢骨の長さ・太さは互いに有意に関連しながら、頭蓋最大長とも関連をもつことが確認された(Mizoguchi, 2009)。
以上の結果を基にして新シナリオを構築しようとしたのですが、特に上記(1)と(3)に見られるように、縄文時代人の祖先に関する複数の分析において相容れない結果を得ることになってしまいました。ここに、それらを図示しておきましょう。
本プロジェクト研究で得られた新知見〔溝口(2010)より改変〕
この日本列島へのヒト渡来経路図は、2009年までになされた形質人類学的研究(骨・生体の形態、古典的遺伝指標、ミトコンドリアDNA、一塩基置換などに基づく研究)を通覧して溝口が現時点で妥当と考えるものであり、本プロジェクト研究班の班員全員の合意によるものではない。@アフリカで現代人(ホモ・サピエンス)にまで進化した集団の一部が、5〜6万年前までには東南アジアに来て、その地の後期更新世人類となった。AB次いで、この東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった。Cアジア大陸に進出した後期更新世人類はさらに北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得るに至った。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいたと考えられる。Dさらに、更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住したかもしれない。Eそして、時代を下り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布した。FGこの中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。
以上の推測渡来経路図の上に着色した部分は本プロジェクト研究で得られた新知見である。黄色部分は、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説(Adachi et al., 2009)、緑色部分は、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘(Mizoguchi, n.d.)、薄紫色部分は、港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点があり、それらの間の系譜的連続性は見直される必要があるという主張(Kaifu et al., n.d.)を図化したものである。
本プロジェクトが発足して2年半後の2007年秋、それまでの知識では班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れませんでした(「日本人形成過程のシナリオ」のページ参照)。そして、プロジェクト終了後の今も、結果のすべてを整合的に説明できるようなシナリオが構築できないのは残念です。しかし、問題点を一層明らかにした、という意味では研究の深化に多少なりとも貢献できたのではないかと自負しています。
結局、以下のような、「日本人形成過程のシナリオ」のページで指摘した問題の多くが今後の課題として残ってしまいましたが、機会あるごとにその解明に努力していきたいと思っています。
(1)縄文時代人の祖先集団はいつ、どこから、どのような経路で日本列島へ入ってきたのか?
(2)縄文時代人祖先集団のアジア大陸内・周辺地域での移住・拡散経路は?
(3)弥生時代人祖先集団の源郷はアジア大陸のどこか?
(4)弥生時代人祖先集団のアジア大陸内での移住・拡散経路は?
(5)渡来系弥生時代人は日本列島をどのような経路で東進・北上したのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影響はどの程度だったのか?
(7)環境要因の身体的時代変化への影響はどの程度だったのか?
長い間のご声援・ご協力、ありがとうございました。
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