公開シンポジウム
日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致
配布した抄録集の表紙
**** 「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」研究班 ****
2010年2月25日更新
2010年2月20日、当研究班は過去5年間の研究成果を発表すべく、国立科学博物館分館大会議室において、公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」を開催致しました。予想に反して、400名強もの方々がお出で下さり、感激すべき締めくくりとなりましたが、会議室の定員を大幅に上回ったため、非常に多くの方々にご迷惑をお掛け致しました。ここに改めてお詫び申し上げますとともに、厚く御礼申し上げます。
シンポジウムの立て看板 と シンポジウム会場の様子
なお、シンポジウム当日、会場で配布致しました抄録集の内容は以下のとおりです。
目 次
日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致
2010年2月20日(土)10:00〜16:30
国立科学博物館分館 研修研究館4階大会議室
ごあいさつ 1
プログラム 2
溝口優司 『日本人の起源・形成過程についての諸仮説』 3
海部陽介・藤田祐樹 『日本列島基層集団の謎 〜港川人骨の再検討から〜』 4
河野礼子 『デジタル解析技術を活用した港川人骨の解析』 5
松浦秀治・近藤恵 『日本列島の「旧石器時代人骨」の年代再検討で生じた縄文時代人の起源問題』 6
坂上和弘・馬場悠男 『縄文早・前期人骨の多様な形態特徴』 7
安達 登・篠田謙一 『北から見た縄文人起源論』 8
中橋孝博・飯塚 勝 『弥生時代の幕開け−渡来系弥生人はどうひろまったのか?』 9
米田 穣 『縄文・弥生時代人の食生態』 10
ごあいさつ
私たち「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」研究班は、2005年から、日本人の起源・形成過程に関する種々の問題を、おもに自然人類学の立場から改めて検討するプロジェクトを立ち上げ、共同で研究を行なってきました。
言うまでもなく、日本人の起源の研究は今に始まったわけではなく、100年以上の歴史をもつ日本の人類学的研究の大きな柱のひとつです。しかし、特にここで本研究プロジェクトを立ち上げた背景には、この問題を取り巻く近年の状況の変化があります。日本の旧石器の捏造問題では旧石器自体の再検討が行なわれましたが、同時にそれは日本の旧石器時代人化石に再評価を迫ることになりました。また、加速器C-14年代測定法(AMS)による精密な分析から、弥生時代の開始時期が従来の説よりも数百年もさかのぼる可能性が出てきて、これまでの縄文〜弥生移行期の概念が大きく変わりつつあります。
本研究プロジェクトでは、このような状況をふまえ、形態と遺伝子のデータに基づいて、旧石器時代から縄文〜弥生移行期まで日本列島住民の身体形質や遺伝子がどのように変化したか、という問題を改めて検討し、新たな日本人形成過程のシナリオを構築することを目指しました。本日は、当研究班のこれまでの研究成果を発表すると同時に、この古くて新しい問題について皆様からも忌憚のないご意見を頂戴したいと存じます。
このシンポジウムによって、日本人形成過程の理解がさらにわずかでも進めば、それは開催した我々研究班にとっても大きな喜びです。
2010年 2月20日
研究班代表 溝口優司
プログラム
司 会: 篠田謙一
講 演:
10:00〜10:30 溝口優司 『日本人の起源・形成過程についての諸仮説』
10:30〜11:00 海部陽介・藤田祐樹 『日本列島基層集団の謎 〜港川人骨の再検討から〜』
11:00〜11:30 河野礼子 『デジタル解析技術を活用した港川人骨の解析』
11:30〜12:00 松浦秀治・近藤恵 『日本列島の「旧石器時代人骨」の年代再検討で生じた縄文時代人の起源問題』
12:00〜13:30 <昼休み>
13:30〜14:00 坂上和弘・馬場悠男 『縄文早・前期人骨の多様な形態特徴』
14:00〜14:30 安達 登・篠田謙一 『北から見た縄文人起源論』
14:30〜15:00 中橋孝博・飯塚 勝 『弥生時代の幕開け−渡来系弥生人はどうひろまったのか?』
15:00〜15:15 <休憩>
15:15〜15:45 米田 穣 『縄文・弥生時代人の食生態』
15:45〜16:30 総合討論『形態・DNA・食性モデルの一致・不一致をどう考える』
コメンテーター/今村啓爾、春成秀爾
16:30 <閉会>
日本人の起源・形成過程についての諸仮説
溝口優司
すでに江戸時代において、日本人考古学者が日本列島から出土した石器などについて論考を行なっていたことは、よく知られた事実であるが、いわゆる科学的な日本人起源論・形成論の始まりは、P.F.v.シーボルトが有名な著書「Nippon」を分冊出版しだした1832年と言ってもよいだろう。しかし、それから178年を経た2010年の今に至っても、いまだに、日本人の起源とその形成過程はすべて明らかにされた、と言えるような状態にはなっていない。最大の原因は証拠となる古人骨の発見がまだ十分ではない、ということに尽きるが、それでも、近年発達した古人骨DNA分析や、コンピュータ・トモグラフィ技術に基づく骨の三次元構造解析、あるいは新しい統計学的手法の適用などによって、いくつもの新知見が得られている。本シンポジウムでは、それらのうちの、とくに我々が5年前に立ち上げた研究プロジェクトの成果を中心に報告する。
この「前書き」的講演では、これまでの、おもに形質人類学(文化的影響をも考慮するヒトの生物学)的な研究に基づく日本人の起源・形成に関する仮説を紹介し、その上で、演者自身が得た研究成果も報告する。その概要は以下のとおりである。
演者は二つの分析を行なった。一つは、弥生時代以降にアジア大陸から西日本に渡来してきた人々が本当に日本列島を西から東へと移住・拡散したのか、という、いわば日本人の形成過程に関する問題を統計学的に検討した分析である。もう一つは、これまで日本人の起源に関する研究では使われていなかった(外国のもっと古い化石研究では使われている)「典型性確率」という新しい統計学的手法を、縄文時代人の祖先の探索のために適用した分析である。
第一の分析では、縄文時代と古墳時代の間で骨計測値の地理的変異パターンに類似性がない、ということが示された。これは骨計測値が縄文時代から古墳時代にかけて地域ごとにバラバラに時代的変化をしてきたことを示唆するが、移住・拡散によるものなのか否かは、さらに今後検討されなければならない。
もう一つの分析では、オーストラリア東南部出土の人骨化石、キーローが、港川人以上に縄文時代人に似ていることが示された。これは、今後、縄文時代人の祖先を探索するためには、広くオーストラリアまでも含めた地域を対象にしなければならないことを意味する。
日本列島基層集団の謎 〜港川人骨の再検討から〜
海部陽介・藤田祐樹
日本列島では、4万〜1万5000年前の旧石器時代遺跡が実に1万箇所も知られているが、人骨化石の出土例は極めて少ない。そのため、列島の旧石器文化についての情報はある程度充実しているが、この文化を築いた人々については不明な点が多い。一方、琉球諸島からは旧石器時代の人骨化石がいくつか発見されており、中でも沖縄島の港川フィッシャー遺跡からは、ほぼ完全な頭骨を含む5〜9個体分の化石が見つかっている。これらの人骨化石は、旧石器時代の日本列島人の由来と生活、そして縄文人との関連について、他では得られない手がかりを与えてくれるはずである。ここでは、筆者らが最近行った、港川人の下顎骨の研究結果について紹介したい。
1982年に鈴木尚によって港川人骨の報告書が刊行されて以来、港川人のような集団が日本列島の基層集団で、かつ縄文人の祖先であるとの考えが、国内の人類学者の間で支配的な考えとなっていた。そこで私たちはこの仮説を検証するため、下顎骨に注目し、CTや3次元画像解析技術も用いて、港川人4個体と北海道〜九州各地の早期〜晩期縄文人との詳細な形態比較を行った。
その結果、港川人の下顎骨には、男女ともに、縄文人とは異なる特徴がいくつも存在することが明らかになった。世界各地の現代人集団を比較した別の研究結果と照らし合わせると、港川人の下顎骨の特徴は、現代の東北〜東南アジア集団よりも、オーストラリア先住民やニューギニア集団の特徴と近いことがわかった。完新世前半の東南アジア地域には、後者のような集団が広く分布していたとの有力な仮説があることから、港川人の祖先は、東南アジア地域のそうした集団にたどれる可能性がある。一方で、これまで人類学分野で仮定されてきた港川人と縄文人の連続性という考えは、今後慎重に見直していく必要があるだろう。もし港川人集団と縄文人の間に直接の関係がないのなら、縄文人の起源は港川人とは別に探る必要が生じてくるし、本土と沖縄ではそもそも旧石器時代人のルーツが違っていた可能性も出てくる。
ただし、私たちによる港川人の再検討はまだ始まったばかりである。今回の下顎骨の解析により、上述のように日本列島の基層集団は多元的であったことが示唆されたが、今後、他の骨格部位についても詳細な解析を行い、こうした可能性をさらに追求していく予定である。
参考文献
Y. Kaifu et al. (in press) Late Pleistocene modern human mandibles from the Minatogawa Fissure site, Okinawa, Japan: Morphological affinities and implications for the modern human dispersals in East Asia. Anthropological Science. DOI: 10.1537/ase090424.
デジタル解析技術を活用した港川人骨の解析
河野礼子
骨や歯の3次元形状をデジタルデータ化して分析することは、形態人類学の研究においては、いまやすっかり当たり前のステップとなった感がある。X線CT装置による連続撮影や、表面形状計測装置による3次元デジタイズなどが、データ化の手段として利用される。2005年の夏以来、東京大学総合研究博物館において、港川人骨標本のマイクロCT撮影を中心とした形状デジタルデータ化が進められてきた。本講演では、主として頭骨のデジタルデータを利用して実施された、デジタル解析ならではの強みが生かされた研究例をいくつか紹介する。
連続CT撮影による三次元形状デジタルデータ化の最大のメリットは、内部形状・構造が可視化されることであろう。また、実物標本ではできない復元や修正が可能であるということもまた、デジタル解析の強みである。デジタルデータを実体化することが可能な3次元プリンターを併用することにより、従来見えなかった構造が「見える」ようになり、また、不可能だった復元作業が可能となる。こうした利点を生かした研究例として、港川1号男性のエンドキャスト形状の分析と、1号男性などの下顎骨標本のデジタル復元について紹介する。
また、形態の比較に通常用いられるランドマークではカバーされない、また線計測では捕らえられない、局所的・面的な特徴を詳しく比較分析するためには、表面形状の三次元化が有効である。港川1号男性人骨はグラベラ(眉間)部が盛り上がっていることが特徴的であると従来から指摘されてきたが、これについて表面形状をデジタイズすることによって、縄文時代人骨との定量的な比較が可能となった。
日本列島の「旧石器時代人骨」の年代再検討で生じた縄文時代人の起源問題
松浦秀治・近藤 恵
「旧石器時代人骨」の出土が報告された日本の遺跡は、現在までに20箇所を数える。ここでいう日本の「旧石器時代人骨」とは、少なくとも更新世に遡る可能性が示唆され(かつて示唆されていたものを含む)、縄文時代あるいは沖縄の貝塚時代の遺物を伴わない人骨、の意であるが、その研究の現状(特に年代的背景に関して)とそれに係る課題については、以下のことが指摘される。(1) 日本の化石人骨といわれていた資料で、確実に旧石器時代に遡ると考えられるものは多くない。(2) 中期更新世に遡る人骨は確認されていない。(3) 具体的な年代が推定されているものでは、沖縄本島の山下町第一洞穴人骨(間接的ではあるが、およそ32 ka BPと推定される[数値は未較正の炭素14年代。「ka」は千年をひとまとめとした年代の単位。以下同])が最古である。(4) 縄文時代人的骨形態特徴は約14 ka BP(文化的には旧石器時代末期の細石刃文化期)には出現していたようである。(5) 縄文時代人的特徴を持つ旧石器時代人骨の年代は、暫定的ではあるが、約18 ka BPまで遡らない(約18 ka BP以前の人骨は、必ずしも縄文時代人的形態特徴を有するとは言えない)。(6) したがって、日本人の起源に大きく関与する縄文時代人の起源と形成史については、約18 ka BP(文化的には「ナイフ形石器文化期」の後半)以降、旧石器時代末期の細石刃文化期へ向かっての環境変化の中で、旧石器の文化と人がどのように変遷したか(列島内における連続的変化か、大陸などからの移住の影響があったか)が課題となる。(7) 文化的見地からは、ナイフ形石器文化と細石刃文化の間の連続生は乏しい(少なくとも細石刃文化の一部は大陸からの移入要素である)ことから、「縄文時代人の祖先は大陸からの新たな移住者であった」という可能性が示唆されるが、今後の新資料の追加と研究の進展が待たれる。
本発表は、特に、同一遺跡の上下の堆積物から形態所見の異なる人骨資料が出土としている点から、浜北根堅遺跡と港川フィッシャー遺跡の重要性を指摘するとともに、山下町第一洞穴人骨の形態学的研究成果への注目、および演者らによる港川フィッシャー遺跡出土骨の相対編年に関する最近の研究成果の紹介を交えつつ、上述の (4)〜(7) に関して述べるものである。
縄文早・前期人骨の多様な形態特徴
坂上和弘・馬場悠男
およそ1万2000年も続いた縄文時代のあいだ、人々の姿はどのように変わったのだろうか。新潟大学の小片保は、1970年代から縄文人骨の時代的変遷を研究した結果、縄文時代人を「早前期人」と「中後晩期人」の二つに区分し、早前期人は骨が小さく「華奢」、中後晩期人は大きく「頑丈」であると表現している。具体的には、早前期人の顔は上下前後に短く、下顎骨がとくに小さい。四肢骨では、長さには時代差は見られないが、太さは早前期人の方が細いと指摘している。
ただ、小片の時代では、発見された早期・前期の人骨は限定的であり、最も標本数が多い計測項目においても12個体が最大であった。小片の発表以来30年近くが経過し、当時は少なかった早前期人骨も多く発見されている。本発表では、特に本州および四国の早前期人骨を調査し、早期人と前期人との間や前期人と中後晩期人との間に時代差が見られるかどうかを早期・前期共に35個体を越える標本数で検証した。
その結果、男性下顎骨において前期から中後晩期にかけて大きく「頑丈」になり、上肢骨は早期から前期、前期から中期以降にかけて有意に太くなっており、下肢骨は前期から中後期以降にかけて有意に太くなっていることが明らかとなった。つまり、男性では「華奢」から「頑丈」になるという時代変化が確認された。女性では、ほとんどの項目で時代変化を示さなかったが、中期人の四肢骨は全て他の時代よりも長く、推定身長も153cmと高いものであった。
また、早期・前期という時代区分の内でも、四肢骨の長さや大断面の形状は大きなバリエーションを示し、また、顔面形態も地域によって大きく異なることが明らかとなった。
北から見た縄文人起源論
安達 登・篠田謙一
近年におけるDNA解析技術の進展は、現生人類の起源と拡散について新たな知見をもたらし、この分野の研究を一変させることになった。とはいえ,これらの遺伝子解析はほとんどが現代人を対象としており,対象集団の現在の遺伝子型を明らかにできても,その成立過程は詳らかにし得ない。この欠点を補うべく,昨今では遺跡から出土した古人骨の遺伝子解析が行われているが,集団として議論できるレベルの個体数を備えた研究は僅かである。
今回我々は、札幌医科大学が所蔵する北海道の出土人骨121個体(縄文時代,続縄文時代)について、ミトコンドリアDNAの高多型領域の塩基配列と,コーディング領域の1塩基多型を組み合わせて解析し、得られた結果を現代人のデータベースと比較検討した。ミトコンドリアDNAには、人類が世界拡散する過程で突然変異によって生じた様々なタイプ(ハプログループ)が存在するので、その系統関係を調べることによって、集団の起源や成り立ちを知ることができる。したがって北海道の先住集団のDNA分析は、この地域におけるポピュレーションヒストリーの解明に必要な情報を提供することになる。
実験の結果、121個体中、54個体からDNA情報を得ることができた。北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察され、その頻度分布はN9bの頻度が極めて高い(64.8 %)特徴的なものであった。これらのハプログループのうち、D10は、アムール川下流域の先住民・ウリチにみられるものの、現代日本人での報告はない。更にハプログループGも主として北東アジアに見られるタイプで、特に北海道の縄文人と同じサブグループG1bはカムチャッカ半島の先住民に高頻度でみられる一方、現代日本人での報告例はない。また、全体で半数以上の個体が属するハプログループであるN9bも、アムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持している集団があることが報告されている。
この結果は、北海道の縄文人と、現在の大陸北東部、特にアムール川下流域の先住民との結びつきを強く示唆している。北海道は最終氷期には大陸とサハリンを通じて陸橋で結ばれており、シベリアに起源する細石刃文化の影響下にあった事を考えれば、これらのハプログループが後期旧石器時代にアムール川下流域周辺に居住していた集団から北海道にもたらされたという仮説も成り立つだろう。北海道の縄文人に関しては、大陸北東部の周辺集団という捉え方もできることをDNA分析は示している。一方、ハプログループM7aはこの地域にはごく僅かしか見いだせず、むしろ現代では琉球列島の集団に高頻度で存在する。このことは縄文人の起源を考える際に、多様なルートを想定する必要があることを示唆している。
弥生時代の幕開け−渡来系弥生人はどうひろまったのか?
(数理モデルを用いた考察)
中橋孝博・飯塚 勝
縄文時代から弥生時代へ、この日本の歴史上の大きな変革はどのように実現されたのか。日本人の形成には弥生時代に大陸から渡来した人々が大きな役割を果たしたとされるが、その最初の入植地と見なされる北部九州では縄文末から弥生初期にかけての人骨資料が欠落しているため、具体的にどの様な人々によって新時代への幕開けが実現されたのかは不明のままである。土着縄文人が先進文化を取り入れて新しい社会を構築していったのか、それとも渡来人が当初より変革をリ−ドしていったと考えるべきか、この謎の空白期に関する積年の争点を数理モデルを用いて考察してみた。
北部九州の弥生開始期の遺跡では、縄文伝統による生活用具が大半を占めること等から考えて、在地住民を圧倒する規模での渡来は考えがたい。おそらく少数の渡来人が水稲稲作文化をもって入植したのだろうが、その一方で、数百年後の弥生中期頃になると、当地の住人の殆どが同時代の大陸集団に似た人々で占められていたことがわかっている。縄文人が新文化を受け入れて自ら弥生社会を形成していったなら、弥生中期の住人は縄文人的になるはずだが、実際はそうはなっていない。従って、これらの事実を整合させる一つのシナリオとして、少数の渡来人がその後の数百年間に当地の人口の殆どを占めるに至るようなことが実際に起き得たかどうか、その検証が鍵になるだろう。
そこで、数理モデルを用いて資料空白期間の縄文系、渡来系の人口変化をシミュレ−ションしてみた。その結果、これまで北部九州で確認されている弥生人の高い人口増加率をもってすれば、そうした人口比の逆転(少数派から多数派へ)は十分可能であることが確認出来た。つまり、当地で起きた弥生革命は、土着集団による先進文化の受容現象というよりは、やはり当初より渡来人が牽引役となって自身の人口を増やしながら実現していったものと考えるのが妥当であろう。周知のように、北部九州に端を発した弥生文化の波は、その後急速に列島各地に波及して日本人の生活を大きく塗り替えていった。この変革の最初の発火点となった北部九州において、具体的にどの様な人々がどのような形で変革を実現していったのか、その実態の解明は単に北部九州のみならず、変化の波に洗われていったその後の各地の状況を復元するうえでも重要な基石になろう。
縄文・弥生時代人の食生態
米田 穣
北海道から沖縄諸島にかけての多様な環境に適応した縄文時代の人々は、どのような食生活を送っていたのだろうか?また、弥生時代に主要な生業活動として加わった水田稲作によって、日本列島に暮らす人々の食生活は劇的に変化したのだろうか?本研究では、遺跡から出土する古人骨を研究対象として、先史時代の食生活を復元し、縄文時代と弥生時代を比較することを試みた。具体的に分析するのは、古人骨から抽出されるタンパク質コラーゲンの炭素・窒素同位体比である。日本各地の人骨を分析しているが、今回はとくに北海道と沖縄諸島に注目した。なぜならば、弥生時代に本州周辺では速やかに水田稲作農耕が拡散したが、北海道と沖縄諸島では水田稲作が主要な生業になるのは、ずっと後の時代になってからである。日本列島の南北端でおこったこの現象を、縄文時代の食生態の地域多様性と、弥生時代とその並行期(北海道の続縄文時代と、沖縄の貝塚時代後期)の食生態の多様性から、縄文時代と弥生時代の共通性と独自性を考察する。分析の結果、本州のなかでも東西で差があるものの、陸上のC3植物を基層とする生態系と、海洋生態系なかでも魚類という2つの食料資源を組み合わせている点が、本州の縄文文化の特徴である。一方、北海道と沖縄諸島では、それぞれ独自の海洋生態系を利用した食生態が存在していたようである。さらに、縄文時代の食生態の地域性は、その後の弥生時代にも継続していることが示された。縄文時代にすでに、続縄文文化・貝塚時代後期文化につながる地域的多様性が、食生態の面では明らかである。このことから、北海道と沖縄諸島で水田稲作農耕の導入が遅れた理由としては、縄文時代の海洋資源を重視した食生態が背景にある可能性を考慮せねばならない。
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