トキ野生復帰への挑戦 ― 2回目の試験放鳥を控えて (協力:動物研究部 西海功)
身近な鳥から野生絶滅へ:トキ受難の歴史
トキは元々日本を含めて中国・台湾・朝鮮半島・ロシアなど,東アジア一帯で普通に見ることのできる鳥だったといいます。
日本では江戸時代には北海道から九州までほぼ全域に生息していました。泥の中に住むカエルやドジョウ,タニシなどを長いくちばしで探り出して食べるなど,水田の環境に適応していました。当時の人々にはイネを踏み荒らす害鳥として嫌われたほど身近な存在だったのです。
ところが19世紀半ば以降,いずれの生息地でもトキの数は減り始めました。
日本の場合,減少は複数の要因が重なり,明治から大正に掛けての数十年のうちに急激に進みました。水田地帯の開発が進み,餌場となる水田が減った上,森林が伐採されたことによりねぐらも減りました。その一方で美しい羽根や肉を目的として乱獲され,羽根は矢羽根や羽根ほうき,布団などの材料となったほか海外へも輸出されました。
肉は古くから食べられていたようで,江戸時代の本草書『本朝食鑑』によれば生臭いものの味は良く,女性の冷え症や産後の滋養効果があるとされていました。
1908(明治41)年,トキは明治政府の『狩猟に関する規則』で保護鳥とされました。その14年後の1922(大正11)年,日本鳥学会がまとめた『日本鳥類目録』では,北海道・本州・伊豆七島・四国・九州・沖縄の各所に分布していたとされています。
しかし1924(昭和元)年・25年には状況は一変,新潟県の記録では乱獲の為に見られなくなったとあり,トキの発見に懸賞が懸けられるほどに数が減っていました。1932(昭和7)年,新潟県でトキの捕獲が禁止され,1934年には国の天然記念物(1952年に特別天然記念物)に指定されます。
戦後になってもトキの数は増えず,昭和40年代には日本国内のトキの生息地は石川県能登半島の一部と,新潟県の佐渡島だけとなっていました。人の少ない山中に住み,人前に姿を現すことはほとんどありませんでした。
1967(昭和42)年,佐渡にトキ保護センターがつくられ,島内で捕獲された3羽のトキの飼育が開始されました。しかし餌として与えていた魚についていた寄生虫などにより,翌年までに相次いで死んでしまいました。
後に日本最後の1羽となったメス「キン(捕獲当初の名はトキ子)」が捕獲されたのは1968年。当時幼鳥だったことから,生まれたのはこの前年と考えられています。更に1970年には能登半島で本州最後の1羽,オス「ノリ」が捕獲され,佐渡に運ばれてキンとのペアリングがはかられました。しかしノリは翌年死亡,キン1羽だけでの飼育が長く続けられることとなります。
貴重になったトキを人の手で保護するのか,生息地に餌をまくなどして野生での繁殖に期待するのか ― 激しい議論が交わされた結果,1980(昭和55)年,国は残ったトキ全ての捕獲と人工飼育を決定しました。
翌81年の1月,佐渡島に残されていた最後の5羽(オス1羽,メス4羽)が捕獲され,キンと合わせて6羽の飼育が始まります。個体を識別する為につけられた足環の色から,4羽のメスはそれぞれ「キ(キイロ)」「アカ」「アオ」「シロ」,オスは「ミドリ」と名づけられました。
今にして思えば,オスがミドリ1羽だけになっていたこの時,繁殖計画には既に暗い影が差していました。トキは一夫一妻で,同時に複数のメスと繁殖させることはできない為です。
キとアカは年内に,ミドリとのペアリングに成功したシロも産卵の際に卵を卵管に詰まらせて,アオも5年後に死亡したため,残されたのはミドリとキンだけとなりました。
ミドリとキンの間で何度かペアリングが行われたものの成功には到らず,中国へミドリを一時送ったり,中国から個体を借り入れたりと繁殖の努力が続けられました。
しかし1989(平成元)年には繁殖期に入ってもキンの体の色が変わらなくなり,95年にはミドリが死亡,日本産トキの繁殖は絶望的となりました。
この間に世界の生息地でも,朝鮮半島では1978年,ロシアでは1981年の確認を最後に姿が見られなくなり,絶滅したものと考えられています。
2003年,キンが死亡。国産のトキは姿を消しました。
現在国内で飼育,あるいは昨年放鳥されたトキは2009年6月現在162羽(※1)。1999年に中国から贈呈されたペアと子孫たち,その後近親交配を避ける目的で中国から新たに譲り受けた個体と子孫たちです。
参考 Newton別冊『トキ 永遠なる飛翔』(Newton Press, 2002)
写真:日本館2階『日本人と自然』「追われる生き物たち」
右下 トキ(剥製) 左上 ニホンカワウソ(骨格) 左下 ニホンオオカミ(骨格)
※1 うち9羽は放鳥個体。病気の流行などのリスクを分散するため,多摩動物公園で14羽が飼育されています。