「東日本大震災被災標本レスキュー活動」 − 藻類標本の救出
陸前高田市立博物館で被災した海藻標本
陸前高田市立博物館の植物標本の被災状況はかなり深刻で、約1万5千点の植物標本の大部分が、泥混じりの海水に浸かり、多くにカビが発生しています。岩手県立博物館が中心になり、全国29機関に修復作業が分担され、各地で、現在までに計約7千点が修復されています。岩手県立博物館での仕分け作業の過程で、約300点が海藻であることが判明したため、途中から約180点の海藻標本を国立科学博物館が引き受けました。
標本は、山田町の標本と同じく1枚1枚がビニール袋で保護されていましたので、ある程度までは無事な標本もみられました。しかし、残念ながら袋の長さが台紙と同じほぼ同じものが多く、そのような標本は海水の浸入をまぬがれずに台紙に激しい損傷を受けていました。ビニール袋が標本よりやや長く、5cmほどの余部をもっていた山田町立鯨と海の科学館の標本とは対照的な結果になりました。
なお、陸上植物の標本の場合、台紙を廃棄することも可能でしたが、海藻の場合は、藻体を台紙から剥がすのが困難なものがほとんどで、やむをえず台紙ごと水洗して修復を行いました。とくに海水による塩分はのちのちカビの原因になりますので、流水中に浸けながら、台紙の両面と縁の泥を毛筆で掃き落として洗浄しました。水洗後は、霧吹きでエタノールをふきかけ、通常の海藻標本の押し葉づくりと同じ方法で乾燥を行いました。
津波の被害を受けた植物標本の大部分は、明治・大正期に東北で活躍した博物学者、鳥羽源蔵(1872-1946)によって採集・製作されたものでした。源蔵は、明治34年(1901)頃から動植物の採集を行い、貝類を中心に膨大な量の標本を残していますが、明治35年(1902年)頃からは岡村金太郎に師事して海藻採集も行っていました(波部 1993)。今回被災した海藻標本のなかには、その当時江ノ島など関東地方で採集した海藻や昭和に入ってから岩手県沿岸で採集したものも含まれています。
大正11年(1922)には、花巻農学校で教諭だった宮沢賢治(1896-1933)が、化石の同定を源藏に依頼して以来、親交が深まり、その後の賢治の作品にも影響を与えたといわれています。賢治の死後発表された『ポラーノの広場』(1934)には、博物局に勤務する主人公レオーノ・キューストがイーハトーヴォ海岸を採集旅行し、「海藻を押し葉に」するくだりがあり、鳥羽源蔵をモデルにした可能性も考えられそうです。当館では、こうした鳥羽源蔵標本の歴史的価値も考慮し、状態によらず一枚残らず修復を試みています。
謝辞
本展示の開催にあたり、次の方々のご協力・ご監修をいただきました。心より感謝いたします。
川向聖子(山田町教育委員会生涯学習課)、 椎屋百代(山田町立鯨と海の科学館)
鈴木雅大(東洋大学理工学部生体医工学科)、 鈴木まほろ(岩手県立博物館)
沼崎真也(山田町立鯨と海の科学館)、 芳賀昭義(山田町立鯨と海の科学館)
舟田春樹(山田町教育委員会生涯学習課)、 湊 敏(山田町立鯨と海の科学館)
吉崎 誠(東邦大学名誉教授)、 和井内三穂子(山田町立鯨と海の科学館)
(敬称略。あいうえお順)
また、標本の修復作業をしてくださった、当館筑波実験植物園ボランティアの皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。
【参考資料】
鈴木まほろ(私信).報告書:山田町所蔵海藻標本のレスキューについて.
鈴木雅大(2010).海藻展示—山田町立鯨と海の科学館の場合.藻類58:183.
山田町立鯨と海の科学館(2002).山田町立鯨と海の科学館10年のあゆみ.
【引用文献】
波部忠重 1993.貝類研究者列伝(86)鳥羽源蔵.ちりぼたん24:55-56.
執筆: 北山太樹 (国立科学博物館 植物研究部 研究主幹)