2010-06-15
渋川春海 ― 紙張子製地球儀・天球儀を作った江戸の天文学者
暦を新しくする! --- 貞享暦改暦とは?
貞享暦
新しい暦(宝暦暦)となる
直前の最後の貞享暦
(宝暦4(1754)年版)
江戸時代、日本での天文学は暦を作成するためのものでした。「天文暦学」と呼ばれます。渋川春海は、実際の天体観測に基づいて、初めて日本の地に適する日本独自の暦である「貞享暦」をつくり、江戸幕府初代の天文方に任じられました。貞享元年には、渋川春海の大和暦が採用となり、当時の元号から「貞享暦」と命名されました。この業績によって、幕府から新設の天文方に任命されました。「貞享暦」は、貞享2年(1685年)から施行となり、宝暦4年(1755年)に新しい暦となるまでの70年間使用されました。
江戸時代はじめまでの日本では、平安時代に唐(中国)から輸入された暦、宣明暦が800年以上も使い続けられていました。しかしこの暦は、中国の経度・緯度に合わせて作られた暦であり、また長年の間に、太陽・月・星の現象である「天象」とのずれが蓄積されていました。そこで、渋川春海の活躍した時代には、日食や月食などの「食」の予報がしばしば外れることなどがあり、改暦の機運が高まっていました。
天文暦学を学んだ渋川春海は、中国・元の授時暦が優れていることを知り、延宝元年(1673)授時暦の採用を幕府に提案しました。しかし、授時暦は延宝3年(1675)5月の日食で予報を失敗し、かえって宣明暦のほうがが当たったので、授時暦の採用は見送られました。
そこで渋川春海は、昼は太陽、夜は月・星を観測し、当時最も参考にされていた世界地図「マテオ・リッチの世界図」に基づいて、日本と中国の経度差を考慮にいれて、「授時暦」を改良した「大和暦」を作成しました。天和3年(1683)再びこの暦に改暦するよう提案しまたが、大多数の意見により、中国・明の「大統暦」を採用することになりました。そこで三度目の提案をして、「大統暦」と「大和暦」を実際の観測でどちらがより精巧かを比べることになりました。その結果、「大和暦」が優れていることが判明し、貞享元年に新しい暦として採用されました。新しく「貞享暦」と名づけられ、貞享2年(1685)から施行されたのです。渋川春海は、この業績によって、幕府から新設の天文方に任命されました。江戸時代の作家、井原西鶴は、この改暦の影響を受け『暦』という浄瑠璃脚本を書いています。